セレニカ~グラントリ (UCI/2.HC)

最難関となるクイーンステージはブロークンランド

フェラーリのマウンテンバイクのおはなし

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いまでもたまに通販の長期在庫で見かけますが、10年ほど前にフェラーリのロゴを冠したマウンテンバイクが販売されていました。子供用から大人用まで全7車種、ハイエンドモデルはなんと40万円! 自動車ブランドの自転車というと中国メーカーの安物フレームにロゴだけ貼ったものを連想される方も多いかと思いますが、このシリーズはホンモノでした。といってもフェラーリが作ってたわけじゃないでしょ? どこ製よー? という疑問がわいてくるのもごもっともな話です。で、気になってちょっと検索してみたら、そのへんの事情が書かれた記事が見つかったので、無断で翻訳してお届けします。まあメキシコのサイトなのでわざわざ日本語のブログに文句を言ってくることはないんじゃないかなー。ないといいなあ。

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フェラーリの自転車、メキシコ製

メキシコの自転車メーカーBiciclo社が高級モデルを企画しイタリアの会社に売却。この先20年間で世界にむけて30,000台を生産すると合意。 2007年9月7日(金)

Turbo bikeブランドの自転車を製造するBiciclo社のオーナー、アレッサンドロ・アレッシ(Alessandro Alessi)は、とある晩F1レースを見ていた。イタリア人の彼はフェラーリのファンで、フェラーリチームの勝利をことのほか喜んでいたが、そのときふと思いついたことがあった。跳ね馬のマークのついた自転車を作るというのは無理だろうか? 翌日会社でこの話をすると(てっきり「頭がおかしいのか?」と言われると思った、とのちに述懐している)、誰もが昨晩の彼と同じように盛り上がってくれた。

このサン・ルイス・ポトシの起業家のアイディアが現実となったのは2006年の11月のことだった。世界でもっとも高級なブランドのひとつと、5年間に及ぶ契約を交わすことになったのである。しかも、100%メキシコ製の高級自転車の製造契約だ。

アレッシはメキシコから真紅のブランドの本部があるマラネッロまで何度も足を運び、ついに「フェラーリブランドへの敬意にあふれ、ブランドの価値をより高めるような自転車をデザインしてすぐに送ってくれ。全世界における販売計画も添えて」と言わしめたのである。

しかしフェラーリと契約したがっていたのはBiciclo社だけではなかった。他にも2社から自転車製造を提案され、検討していたのである。アレッシには10日の猶予が与えられた。「きびしいけど無理ってわけじゃない」フェラーリのブランド管理担当部との打ち合わせからの帰途につきながら彼はそう考えていた。打ち合わせでは、自転車のモデルとその製造数を提案するように言われていた。

サン・ルイス・ポトシのチームメンバー全員が、フェラーリはこと品質にかけては非常に要求が厳しいことを知っていた。「プロトタイプができるまで昼も夜も働き詰めでしたね」マーケティングディレクターであり、このプロジェクトの宣伝担当を務めるホアン・カルロス・アギラール(Juan Carlos Aguilar)は当時のことをそう語った。

夢は現実となりつつあった。Biciclo社は従業員550人、年間35万台を製造しており、このプロジェクトには2千5百万ドルを投じて、二、三年で回収する見込みであった。「ここでリスクを取るべきかどうか、現状に甘んじるかさらなる高みを目指すか、大きな決断でした」とアレッシは語る。

打開策を求めて

Turboはリスクを取ることにした。メキシコにおける販売不振を巻き返すチャンスだった。自転車市場の条件はベストとは言いがたかった。

「商品価格は下落傾向にありました」メキシコ自転車製造業協会(Anafabi)のハビエル・アラミージョ(Javier Alamillo)氏によれば、当時の販売台数は年間300万台、2001年と比べると50%以上の伸びを示していたが、販売台数の85%を占める14社の戦略は薄利多売であった。

メキシコの自転車業界はなんとかして逆風に対抗しようとしていた。Anafabiの予測ではこの年の上半期は自転車の売上が30%減となるだろう、ということだった。原因は、自転車売上の22%を占める子供向け市場が、テレビゲームや携帯電話の普及によって低調となるためではないか、とアラミージョ氏は見ていた。

中国製の輸入自転車の影響も少なくなかった。「中国の自転車メーカーの人件費はメキシコの10分の1ですし、輸出品には政府からも13%の補助金が出るんです」とアギラール氏。しかしそうしたなかでもTurboブランドの自転車の売上はこの5年間で毎年平均10%の伸びを示していた。ただし、利益率の伸びはそれよりも低かった。

販路の開拓

Biciclo社は3年前の時点で、国内販売の埋め合わせをするために新たな戦略が必要だと気づいていた。追求すべきが(社是に書かれているように)品質であるのなら、販売数競争に参加するのは間違っている。「Turboブランドはメキシコの市場では最も高級なブランドなんです」とアギラール氏は語る。価格帯は千から3万ペソ(訳注:2007年当時は1ペソ=10円)。ハイエンドモデルは過去4回のオリンピックでマウンテンバイク、トライアスロン、ロードレース競技に使用された。さらに前回のパンアメリカン競技大会ではメキシコ人選手のLorenza MorfinがTurboチームで銅メダルを獲得している。

この考えに従って、Turboはハイエンド市場に集中することにした。2003年には高級モデルを輸出している。「ここを乗り切ればグローバル市場に乗り出していけると考えました」アギラール氏は述べている。

こうした取り組みの中で、ルーニー・テューンズのキャラクターが描かれた自転車の製造ライセンスを取得したり、2年前にはアウディ・メキシコと契約し、国内向けにアウディブランドの自転車を製造してきた。

このような流れを考えれば、フェラーリとの契約もそうそうおかしな話ではなかった。「利益をきちんと出しつつビジネスを拡大するのが目標でした」とアレッシ氏。フェラーリのようなブランドのライセンス製品はそのためのものだった。

はたして数字は期待を上回るものだった。Turbo社の利益はメキシコ国内では一桁台だったが、フェラーリの自転車では30%を超えることがあった。

「単なるビジネス上の利益だけでなくイメージの向上があったということですね。問題は、今後ビジネスを続ける上でそうしたイメージと実際の利益とどちらを重視するかということで」とアラミージョ氏。

旅立ちの日

プロジェクトがフェラーリの認可を受けて2ヶ月後、Turbo社はイタリアで7種類のモデル――子供向けから大人向けまで――の実物を披露した。

合計7人のデザイナーと設計者が部品構成を決定し、製品コンセプトを試作品に落とし込んだが、アレッシ氏は業界での50年の経験を生かして彼らをすぐそばで支え続けた。とにかく、かつてないものを、それでいてブランドのイメージを崩さないものを生み出さなくてはならなかった。

ここでTurbo社に有利に働いたのが、エルネスト・コルナゴの――自転車界を象徴する人物の――支持を取り付け、プロジェクトに協力してもらったことだ。コルナゴは1961年からフェラーリのハイエンド自転車を製造していた。価格帯はおよそ7千ユーロ(約9千5百ドル)、生産数は60台を超えることはなく、分野はロードバイクに限定されていた。

Biciclo社も同じように製造を手がけたわけだが、コルナゴが「部品も技術的な仕様も申し分ないと保証してくれました」とアギラール氏は明かす。実際のところ、自転車はサン・ルイス・ポトシではなく韓国にあるコルナゴの工場で製造された。

ビジネスプランの軸は、ブランドの影響力を十分に活かして、世界中で限定数の自転車を販売し、豪華な商品を手の届く価格で提供することだった。価格帯は4千ペソ(子供用)から2万5千ペソだった。

契約では、4年間で5万台の生産が計画されており、2007年にはそのうち3万台が生産された。ポイントは、市場が求めるよりも供給量を絞ってプレミア感を演出するという点だ。「自転車を限定生産にして人気を高めたかったんです」とアレッシ。いまのところ計画通りの生産が予定されている。

販売代理店はヨーロッパ、アラビア半島、それに中国、台湾、日本、韓国といったアジアの国々にあり、1万1千台が販売予定だ。加えて米国のSaksとNeiman Marcus(訳注:いずれも百貨店チェーン)への初回出荷が控えている。

サン・ルイス・ポトシの本社では、いまや従業員が電話口で英語を話すのがありふれた光景となり、運輸会社との打ち合わせの声や、フェラーリの話題があちこちで聞こえてくる。

「いまでも夜、うちに帰るとふと考えることがあるんです。一年半前、こんな小さな会社が世界を相手に、たった一社でフェラーリの自転車の製造販売を手がけることになるなんて思いもしなかったな、と」ホアン・カルロス・アギラールはそう述懐した。

バーバラ・アンダーソン(Bárbara Anderson)氏からの情報に基づく記述